丹波の荘園 そのE

 

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 頼朝は、守護・地頭の設置によって全国の軍事権を掌握することに成功する。丹波に設置された荘郷地頭は、残念ながら人数は不明だが、兵庫県では、但馬に43人、播磨に16人、淡路に14人となっている。丹波地域で記録に残る荘郷地頭の一人に酒井氏がいる。 

□荘郷地頭⇒酒井氏の来住

  酒井氏の祖は、桓武天皇の皇子葛原親王の後胤、筑後守家貞の嫡子筑後守貞能と云われ、平清盛の家人として頼朝に敵対し、源平の争乱後出家して宇都宮朝綱を頼り、その後頼朝から許しを受け、鎌倉御家人の一人として、貞能の四代後の明政が主殿保、犬甘保、油井保の荘郷地頭に任命された。

  当時、酒井氏はまだ平姓を名のり、明政は開発領主の系譜をひく荘郷地頭といわれている。明政の子政親は新補地頭に任命されており、酒井氏は旧古市村のほぼ全域にわたる犬甘・主殿・油井保にゆるぎない基盤を築いていくことになる。この酒井明政の館が、昭和61年発掘された初田館跡(初田稲角ノ坪)と云われ、地元では「酒井勘四郎館」と呼んでいる。

□承久の乱

  頼朝の死後、将軍頼家・実朝の暗殺、政子の父北条時政の伊豆幽閉、和田義盛等の有力御家人の対立は、後鳥羽上皇を中心とする朝廷に政権奪取の計画を進行させた。
  後鳥羽上皇は、実朝暗殺後幕府からの頼仁(冷泉宮)の将軍要請を断り、幕府が任じた摂津国長江・倉橋荘の地頭職解任を申し出、一方で関東調伏の呪詛を京白河の最勝四天王院で行い、新たに西面の武士を置いて権力奪取の野望を強め、承久三年(1221)「義時追討の宣旨」が下されると共に承久の乱が勃発する。  by 如月ノンノン

 

 

             
 
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