国司となって実際に領地におもむいた者を「受領」といった.都にいた時は中流の貴族や皇族でも,ひとたび地方へ行けばとても位の高い,血筋の良い人となる。このため国司の中には任期が終っても都へ戻らず,国司だったときに得た自分の領地に残る者もでてくる。こうした者の中に天皇の一族であった「平氏」と「源氏」がいた.
地方の武士団たちは、地域で豪族として根を張りながら、領地が接すると互いにいがみ合ったりすることになる。同じような力の「ドングリの背比べ」状態となると・・自分達のリーダーは自分達より身分が高く高貴な方やより力のある人を選ぶ形となる。そこで,地方の豪族達は自分たちの土地や権益を守るために「平氏」や「源氏」を自分達のリーダーに選んでいくことに成る。
京に近い丹波地域は、 都の勢力圏がそのまま影響する。ただ丹波地域は、都の政変に敗れると逃げ込むのもこの丹波であった。このため丹波地域は敵味方が共存しながら勢力の強い方が、表に現れ、弱い方が潜む形になり、そうしたことが可能な土地柄であったともいえる。
清盛がクーデターを起こし法皇を鳥羽殿に幽閉した(1179年11月)当時の丹波地域は、清盛の娘婿:藤原兼雅の知行国となり、その弟行雅が国主を務め、以後1183年まで平清邦がその職に就いた。このため、義経が三草を攻めた時も丹波地域は、平氏の支配下に置かれていた。
平家に勝った頼朝は、関西の荘園にもなんとかして,自分と主従関係を持った武士(御家人)を送ろうとした.そこで義経を捕まえることを名目に国ごとに守護,荘園ごとに地頭を朝廷の許しを得て置いた。ただ、まだ後白河法皇は健在で荘園領主の抵抗も激しく,地頭を設置できた荘園は,平家が持っていた領地や鎌倉の敵になった者の領地だけに限られた。このとき配された地頭を荘郷地頭という。下司などと言われていた荘郷地頭が、これより地頭と言う名称に統一されていく。この地頭は従来の下司・公文等の荘官と違い、関東から任命された者だった。
丹波地域の荘郷地頭としては、古市郷に配された酒井氏が有名である。
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