丹波の荘園 そのA-2
〜広がる荘園と開墾地〜

(写真:氷上町由良)

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 新しく水路をつくり開墾された田んぼのことを「墾田」といった。これらを作るための労働力は、貴族や大寺社が抱えていた奴婢、それに口分田を捨てて逃げ出した浮浪人、あるいは近くに住む農民の力を使った。

一般の農民には賃金が払われていたがその多くは収穫された「お米」で支払われていた。直営の荘園ではほぼ全額が荘園主の収益となる。一般の農民の力を借りて経営している荘園では1/5に収益が減る。運送費も荘園主が負担するので、遠いところでは荘園経営が成り立たなかったといわれている。このため、初期の荘園分布が丹波を初めとする近畿・中国・北陸地方に集中する要因ともなった。丹波も例外ではない。当時の荘園の持ち主は、貴族や大寺社が圧倒的に多かったが、農民の取り分以外に租として朝廷にも税を払う必要があった。

これによって朝廷の収入は、一応確保されていた。(当時武士はまだ登場していない。)ただし初期荘園は墾(こん)田(でん)永年(えいねん)私財(しざい)の法(ほう)」に起因する開発ブームに基づくもので、墾田の大半は律令国家の開発が及ばなかった条件の悪いとこばかりで、畿内では「野地」といった後背湿地だったところが多い。ところが、当初は未墾地にとどまっていた開発対象地が、次第に荒廃公田及ぶようになる。

9世紀になると、天皇家自身が財政をおぎなうために、勅旨(ちょくし)により勅旨(ちょくし)田(でん)を開墾したり親王に賜う親王(しんのう)賜(し)田(でん)を盛んにつくったため、私有地はどんどん増加していくことになる。また、貴族たちはこれらの土地に「荘官」と呼ぶ使いを派遣した。荘官は荘園の開墾を指揮し収穫された農産物をおさめる倉を設けた。これを「庄(荘)所」「荘家」「三宅」等とよび、地名を付けて「○○庄(荘)」と呼んだ。これが今日各地に伝えられている荘園名である。初期の荘園は全てこうした荘園主が直接経営にたずさわっていた。

すなわち、初期荘園は、庄所と墾田からのみになっていて墾田あるいは免田の集合体に過ぎず、固有の荘民が存在しなかった。初期荘園が平安時代中期までに衰退してしまう原因のひとつは、郡司による強引な荘園経営が班田農民の反発を招き、賃租にも次第に応じなくなったことによるのである。

一般的な荘園のイメージにあるいくつかの集落から構成され、集落家屋の周囲や背後に田畑と山地が広がっている、あるまとまった地域としてイメージされる荘園領域は、初期荘園ではなく、11世紀半ばから12世紀以降に成立する院政時代の「寄進型荘園」や国司による立荘によるものである。

 

             
 
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