近代の煉瓦について
そのA
・瓦壊直前の徳川幕府は、フランスより技術者を招聘して、慶応2年(1866)
から本格的に横須賀製鉄所の建設に着手。未だ建設途上の慶応4年、幕府は瓦壊し、明治維新を迎えた。 新政府はこの製鉄所を接収、後に横須賀海軍工廠に発展していく。この横須賀製鉄所で、フランス人技術者達は煉瓦を焼いた。生産を本格的に行ったのは、明治元年(1868)頃。この煉瓦は、本体の工場建設のほか、観音崎の灯台建設などに使用された。
・初期には粘土を型に入れ、小型の櫂のような形をした道具でペタペタと表面をたたいて整形するやり方から機械から押し出された長い粘土の帯を、幾本も張られたピ
アノ線でカットする方法。そして初期の火力の低い焼成温度のふぞろいな煉瓦製造から、ホフマン窯というドーナツ状の窯で大量かつ効率的に煉瓦を焼く方法へ・・・・。その生産方式は年々発達していった。
・明治19年(1886)、明治政府は東京都日比谷への官庁集中計画のために、臨時建築局を設置し、その顧問として、ドイツ人建築家ベックマンを招聘。彼は官庁舎の建設には良質な煉瓦が大量に必要であること、そのためには機械を使った煉瓦製造工場の建設が必要であることを政府に進言した。これによって、明治20年(1887)煉瓦製造工場が、東京小菅や武蔵国榛沢郡上敷免村(埼玉県)に設立された。創設時の中心人物は、実業家、渋沢栄一、他に、増田孝(三井物産会社)、諸井恒平(秩父セメントを創設)らが名を連ねた。工場設計者は辰野金吾、施工は清水、辰野は当時、帝国大学工科大学の教授で、建築事務所も設立していた。後に辰野式と呼ばれる、赤煉瓦を多用する建築様式を確立するが、奇しくも彼の最高傑作:東京駅は、自分の設計した工場で製造した煉瓦が使用されることになる。
・煉瓦積みではわが国最古といわれる丹波の鐘ヶ坂トンネルが完成したのは明治16年、日比谷の官庁街に着手する3年前に完成している。本格的な工場生産が始まる前に薩摩から招聘した工人たちの手作りで生産されており、一つ一つ表情の異なるその素朴さが、一層風情あるものにしている。 |