煉瓦について そのA
・平安末に宋で修行した栄西によって初めて禅宗(臨済宗)が伝えられる。禅は、立式の作法。椅子を使うため、床は土間のままか、或いは瓦素地でつくった正方形の陶板=方?(敷瓦)が使われ、壁に対して45度斜めに敷き並べる(四半張り)方法で仕上げられた。京都の建仁寺や、東福寺、南禅寺の法堂などで知られる。目地は入れず、接着せず敷き並べただけのものである。
・やがて方セン(注)は鎌倉時代から瓦色の敷瓦となり、江戸時代には、愛知の瀬戸で製作された施釉陶板が床材として登場する。瀬戸にある禅宗の定光寺(1636創建)の焼香殿と宝蔵の床には、施釉陶板が敷かれている。この施釉陶板は、中国の図案が日本にもたらされ、禅寺の施釉陶板を生み出したと考えられている。
・中世の山城である相生市の感状山城には、曲輪の建物跡の周囲には方?といわれる瓦が縦に埋められ、その内側に礎石が配列されている。これは、防火と防湿とともにねずみなどの小動物が建物内に侵入するのを防ぐため設けられたものと考え、市の教育委員会では食糧などを保管する倉庫跡としている。このように方セン(注)(敷瓦)は、実用的には貯蔵用の倉で防火・防湿と板塀では困難な小動物の進入防止として使用され、壁面の45度の斜め張りを敷き並べる呼び名と同じ四半張りということから、やがてこれが倉の定番であるなまこ壁となっていったと筆者は考えている。
・禅宗を伝えた栄西は、同時に抹茶による喫茶も伝えた。室町期には、村田珠光や武野紹鴎に始まる「わび茶」がおこり、新しい美意識に基づく茶の湯が千利休によって大成される。茶室も書院造りから山里風の庭に草庵を建て、世俗を離れた別世界に茶の湯を求めるようになる。この茶の湯で方?(敷瓦)は鉄製の「風炉」(ふろ)と呼ばれる釜の湯を沸かす脚の付いた火鉢のようなものを載せる敷板として使われている。当初は、床に敷く焼き色の瓦を畳の上に敷いて鉄風炉を置いていたが、その後、志野や織部、黄瀬戸などの文入りの施釉陶板を茶道具の敷瓦として、使うようになった。京都大徳寺の寸松庵に伝わる花壇瓦も、畳の上に置いて織部の緑釉が半分流れるように掛かったものを景色に見立てて風流を楽しんだと記録にある。
以上、わが国のセン(注)は、はじめは中国と同じ寺院の装飾やセン(注)仏、そして禅宗の床材として使われ、実用的には中世から近世に倉の壁面のなまこ壁となり、装飾的には茶の湯を通して、茶道具あるいは飾り陶板として独自の発展をしたと考えられる。
ただし方?は敷瓦に施釉陶板も陶器へと変化し、本来の西欧からの煉瓦は、長崎で最初に生産される幕末まで待つこととなる。
(次回は近代の煉瓦について) |