丹波の義経伝説
そのA:丹波の義経伝説地
「いざ三草へ」一の谷へ向かう源義経が雪の降る丹波路を駆け抜けたのは1184年の2月4日酉の刻、京から三草へ向かう道筋に沿って兵庫丹波地域に残る義経ゆかりの伝説地を紹介する。
○那須与市大権現(井串)−井串の瑞祥寺。天文年間(1532〜55年)の開山と伝えられ、那須与市(与一)宗高ゆかりの寺として知られる。与市は源義経の平家追討に従って篠山市西野々付近を通過中、急な腹痛に見舞われた。そこで当時は観音寺だった瑞祥寺に参拝、観音菩薩に祈願したところ、全快したという。
屋島の戦いで波に揺れる船上で扇の的を射落とし、その名を大いに高めた与市。それも観音菩薩の御利益か。その縁で、同寺には分霊が祀られている。境内の一角にある堂に「那須与市大権現」の大札があり、弓矢と的が描かれた六十枚ほどの絵馬が掛けられている。与市を偲び、今も合格祈願や家内安全などを願い参拝する人が多いという。
○剛山(泉)−山のふもとにあった南賀寺で「心剛山」と呼んだことから剛山と呼ぶようになった。また日置では義経が南賀寺を詣でると、ちょうど寺講の日であったため、ご馳走になり、「この東の山はなんというか?」という義経の質問に、住職は「これは”こうやま”と申します。」と答え、さらに、「ならば今日の寺講を記念して”講山”と唱えよ。」と言ったという。以来、西からは「講山」、東からは「甲山」、南からは「神山」、北からは「剛山」と呼ばれるようになった。現在地図には「剛山」と表記されている。古代の神奈備でもある。
○弁慶塚(上宿)−名称のみ継承。詳細不明。 |