撮影  上井 明 様

丹波の義経伝説
その@:三草山へ、義経丹波を奔る

○平氏と丹波

重盛の死後福原に閉居していた清盛が1179年11月にわかに数千の兵を率いて入京し、藤原師長以下公卿殿上人43人を官に留め、法皇を鳥羽殿に幽閉する。いわゆる清盛のクーデターである。政治権力を握った清盛は、平氏一門に国務の執行権を有する知行国をあたえ、全国の半数以上を支配することとなる。丹波国も清盛の娘婿:藤原兼雅の知行国となり、その弟行雅が国主を務め、以後1183年まで平清邦がその職に就いた。このため、義経の追討軍が組織された当時の丹波地域は、平氏の支配下に置かれていた。

○平氏追討

木曽義仲の上洛に追われて京を捨てた平家は、安徳天皇と生母建札門院を奉じて福原で「管絃講」の一夜を開き、翌日宮殿や第宅を焼き捨て大和田泊より大宰府に走る。平家の後を追って播磨に入った義仲は、法皇の命による頼朝の追討軍を察して帰京した。大宰府に逃げた平家は陣容を立て直し再起し、播磨以西は平家に従うようになる。室山(室津)に陣を張っていた源行家は、平教盛、重衡らと戦い大敗する。宗盛らは安徳帝を奉じて福原に戻り、城郭を一の谷に構え、1184年2月4日清盛の周忌法要を盛大に営む。義仲は上洛を目指す載頼・義経軍と近江粟津で戦い、敗れ戦死する。その載頼・義経軍と一の谷に拠る平氏の戦いが一の谷の合戦である。合戦は1184年2月5日の三草山合戦から始まった。

○三草へ

丹波を迂回し、三草から南下して一の谷を西から攻めて来ることを予想した平家は、資盛・有盛らを派遣し、三草山の西の山口から馬瀬に陣を設けた。義経は頼朝から1月29日平氏追討を命じられ、山側からの搦手大将として京を随時出発し、2月1日・2日大江山周辺に留まり、丹波地域の平氏を抑えた後、2月4日の酉の刻、一挙に天引峠〜波々伯部〜古市〜不来坂峠の丹波路を播磨に向けて奔った。総勢二万騎とも一万騎ともいわれる。兵庫県丹波地域の義経伝説は、この一夜の疾走時に生まれたこととなる。平家物語に5日の三草の夜討は「雪は野原を生めども…」とあるから、4日の丹波路は雪が舞っていたとされている。
いざ三草へ、次回は京から三草へ向かう道筋に沿って兵庫丹波地域の義経伝説地を紹介する。

 

             
 
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