丹波の平家と源氏
そのB:平氏と平家
□平氏
源氏と同じく、皇子皇女の処遇として賜姓が行われたが、天皇の孫以降の代に賜姓を受けた例が多いため、源氏よりも格は下とされた。清盛も当初地方武士と同列に扱われている。
平氏は、桓武天皇から出た桓武平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、仁明天皇から出た仁明平氏などがあるが、武家平氏として子孫の活躍が知られるのは清盛の平氏政権を作った伊勢平氏や、執権北条氏を輩出した坂東平氏などの桓武平氏のみで、一般に平氏といえば桓武平氏を指す。また、「東国の源氏、西国の平氏」と言うが、源氏の本拠地は関西であり、東国は平氏系武士の土着地で実態は、「関西の源氏、関東の平氏」であった。なお、平氏は早くから東国に移り、地名を苗字としたため、平姓を残したのは伊勢平氏など数少なく、その一つであり権勢を握った
平清盛の一族を特に「平家」と呼ぶ。源氏に比べ一門の相互扶助、連携は細やかであった。平治の乱後も清盛は、公卿公家や高級官僚から爪牙として扱われ、知性も理性もなき番犬のごとく使役させられた。取り柄は腕力と武力、熾烈な闘争本能のみのように陰口をたたかれ、何とか脱して人並みの扱いを受けたい思いが公卿武家となり、腐敗した藤原官僚体制の改革が独裁政権とも言われた平家一門の絶頂期を形成することとなる。
桓武平氏は高棟王流と高望王流の二流に分かれ、高棟王流からは平安末期に清盛の正室平時子(二位尼)と、その兄で清盛の威勢によって正二位権大納言にのぼった平時忠が出た。時忠は壇ノ浦の合戦後、能登に流されるが、その子孫が能登半島で豪農となり、現在も続いている。高望王流は葛原親王の三男、高見王の子高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。平高望は上総介として関東に下向し、その子から常陸大掾平国香、鎮守府将軍平良将(平将門の父)、下総介平良兼、陸奥介平良文らが出た。良文の子孫は三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となり、これらを総称し坂東八平氏という。また平国香の子孫からは伊勢平氏が出、伊勢平氏の傍流から平清盛が出た。清盛一族(平家)の没落後、各地に隠れ住んだ平家落人伝説地は大変多く、代表的な武家としては薩摩の種子島氏、対馬の宗氏、尾張の織田氏などがある。
摂津一の谷へ向かう源義経が雪の降る丹波路を駆け抜けたのは1184年の2月4日、当時丹波地域は、平氏の従者が多く木曽の義仲入京時には平忠盛が丹波を訪れ、兵を集めたことが記録に残っている。こうした平氏従者の存在が、義経を大江山でとどまらせる要因のひとつとなった。 |