丹波の平家と源氏
その@:源平藤橘について
丹波の「義経伝説」を書きたいと思う。
その前に四姓について触れたい。いわゆる「源平藤橘」である。皇族が臣下に下る際に賜る「賜姓皇族」は、奈良時代天皇の血筋が途絶えたことを教訓として平安時代に生まれた。安定した皇位継承の為、平安期になると多くの皇子をもうけたが実際に皇位を継承できる皇子は限られ、皇位継承の道を閉ざされた皇族が多数発生し財政を圧迫した。52代の嵯峨天皇の頃から皇位継承の可能性がなくなった皇族たちが賜姓するようになり、「源平藤橘」の四姓に代表される。文官の藤原・橘氏に対し、源平両氏は武人としても朝廷に仕えた。
□ 藤原氏
最も古い藤原氏は、大化の改新で大功をたてた中臣鎌足が天智天皇より藤原の姓を賜り、官位の最高位大織冠を得たことが起源である。後嗣不比等の代に律令制度が導入され、制定・施行に尽力した不比等は官人に同属のものを多数起用した。貴族から下級官人にいたるまで藤原氏が大半を占めるようになり、いわゆる藤原四家(南・北・式・京)に代表される藤原官僚群を構成した。四家のうち北家が最も栄え、摂関政治を行う道長や頼朝等で知られる。源平の武家移行に伴い藤原氏の権勢は後退した。藤原氏の嫡流は九条家・近衛家・二条家・一条家・鷹司家の五摂家のほか、三条家、西園寺家、閉院家、花山院家、四条家、日野家など多くの支流・庶流がある。
□橘氏
敏達天皇の子孫であった葛城王(橘諸兄)と佐為王(橘佐為)は、元明天皇より母の県犬養宿禰三千代が賜った橘姓を伝えるため、臣籍に降下して始まった。橘奈良麻呂の乱等、幾多の変遷を経て時には隆盛を迎えることもあったが、平安末期には氏の公卿も絶え、公家に成ることのできる名門も藤原氏との政変に破れ斜陽化することとなる。なお地方では諸兄の子孫の橘広相の子で、藤原純友の乱で功のあった太宰権師の橘公頼の子孫のように九州に下り武家となった一族(筑後橘氏)もある。 |