丹波の駅馬と山陰旧街道 その2
○佐治駅と丹後支路について
丹波4駅の中で唯一位置が特定されているのが、佐治駅である。現在の青垣の中心地佐治は、中世以後に発達した集落で、中世以前は、佐治川の西北、現在の中佐治から山垣あたりとされている。小字に大道田,馬場田等があることから、駅家は中佐治付近に設置されたと云われている。
その後山陰旧街道は、遠坂峠を超え但馬国に入り、次の駅粟鹿に続いていくことになる。旧街道から派生する丹後支路は、丹後国府に至り、但馬国府に連絡する駅路であるが、諸説があるが本路から分かれた支路は、いずれも兵庫丹波からとなっている。その分岐地は、長柄駅(上代歴史地理新考、大日本読史地図)、星角駅(駅路通、日本地理志料)、佐治駅(大日本地名辞書、日本歴史地図、標準日本史地図)、石生と佐治の中間(福知山市誌)等がある。藤岡博士氏は地形から最も合理的なのは、星角の石生−市島−福知山のコースとしている。奥谷高史氏は、長柄(郡家)から分岐し、西紀の宮田から佐中峠越え又は大山から国領峠越えで市島に入るコースを想定している。丹波国司の大江国房が1057年詠んだとされる和歌に「まよわじと、おもいながらにひでの泊り、まえなみとおく、みわたしもせず」とあり、長柄そして支路駅の「日出」と「前浪」の駅名が順に読まれていることから、麻井玖美氏は長柄から分岐としている。三ツ塚廃寺跡の対岸の向山に日出尾峠があり、近くの乙河内に日出口の小字があり、三ツ塚との間に「宿」集落があり、旅籠田、大道上、大道下、鴨ケ市等、宿駅に関係する小字名が集中している。現在の上竹田付近である。丹波誌に宿は「古え千軒の所なり」とあり、市の貝(一の貝)は大江山の鬼退治に向かう源頼光が一の貝を吹いた伝承が残る。磐座の石像寺や三ツ塚廃寺があり、氷上は、日神でその日神を受けて輝く磐座があると考えると、市島は氷上の中心とも思えてくる。いずれにせよ山陰旧街道と丹後支路によって構成されていた兵庫丹波は、丹波国の中でも最も輝いているように見える。市の貝から塩津峠を越えると福知山。福知山ではもう古道の跡を辿る事はまったく不可能となっている。正確な駅位置はわからなくても山之辺に古道跡が残り、支路が近世の巡礼街道として継承される丹波市は、歴史からも夢とロマンにあふれた豊かな風景を有しているというといいすぎだろうか。 |