泥深きかつて田庭と呼ばれた国の山奥に、何やら奇骨な生き物が棲んでおるという噂があった。頭禿にして体躯は黄蘗、樹の枝葉に擬態するや触れば水となり川を揺蕩い、時に枯葉に紛れ、稀に禿げた頭皮を隠しそびれて人に気付かれ、踏まれるやいなや人を喰うという話まで流れておった。奥田庭のとある邑から、山一つ超えて海へ出づるには杜を越え清流を越え闇を越える寂れた一本の道しかなく、殊に夜、稀に山奥から聞こえる「ホホー、ホッホッホッ」という割れた法螺貝の掠れ音のような気味悪い声が聞こえるや、翌日邑人の一人が必ず霧消していることから、人はこの道のある杜を「三途の杜」と呼んでおった。もっとも、流れていたのは噂だけで、誰もその生き物を見たことがなかった。この前若い女が消えたときに邑長(むらおさ)が若い衆に尋ねたところ、至極当然の答えが返ってきた。「見たものは皆喰われるから、誰も見たことがないのは当たり前ぢゃ。」
白髪の者がまだ皺のなき肌をしていた頃、王家の一族がこの道を通られるということで噂を聞き、時の政府が杜を切り開くよう邑の工人集団に命じたが、古い樫の大樹を切るや皆足の病にかかって歩けなくなったことから、当時の邑長が都に出向いて説明しこの道だけはお避け頂くよう申し出たところ、時の皇が邑長に言った。「それならお前が歩いてみよ。帰ってこなければ通らぬ」と。その後、邑長は山へ消え、再び見た者はいない。今はこの邑からこの道を通ろうとする者はなく、来る者はいても行く者はいない。猛々しくも意気揚々の若人(わこうど)はおらがこそと嘲笑をもって山に向かうが戻る者はなく、それゆえ邑には年寄りか痩小の若人しかいなかった。
ある夜、お蜜という、丈がまだ大人の半分くらいの女子(おむなご)が、「河童を見た」と邑の衆に言った。周囲の大人は怯えつつ聞いた。「でまかせを言うんじゃないよ。どこに見たって言うんだい?」お蜜は言った。「この前の秋、拾ったどんぐりを植えていたの。この春に芽が出たんだけど、その若葉を今日の夕方眺めてると、その葉っぱの一枚が河童になって光のように空に消えていったんだよ。杜の方に向かって。」「何を言っているんだい?」邑の衆は信じがたげな眼差しで女子を見つめた。大人が言えば、邑八分である。母が静止しようとしたが、少女は最後にこう続けた。「夜になってもういちどそっちを見ると、何も変わらなかったけど、月明かりだけはいつもより強かったんだよ。」その同じ夜、邑人は再び「ホホー、ホッホッホッ…」という気持ち悪い声を聞いたが、次の朝、消えた邑人はいなかった。
よく知られていることだが、椎のどんぐりは生で食える。ある時、海の邑の若者由宇(ゆう)がこの山の道を通ってきた。土産に山の奥でとれたという椎のどんぐりを持ってきた。聞けば山の谷間に小川が流れており、それを越えれば、樹冠に隙間なく地に光の届かぬ深邃の場所、鬱蒼とした瞑い杜が汎がっており、方向も何も分からないという。困って仕方なく地面を触れば何やら丸いものがたくさん落ちている。それを集めてさっきの小川に戻って見るやどんぐりだった。ふと気付けば道は杜ではなく小川に沿って続いており、半日歩いてこの邑に着いた、という話である。面白がってこれを聞いていた若い連中二、三人がそれを食うたところ、翌朝当人達は足が細くなり眼が攣りあがり、頭から樹の葉が生え真ん中は禿げ上がっていた。家族の数人がそれを見た以外誰も証言はなく、やがて「ホッホッホ」と宣(のたま)いながら山に走り去ったそうである。
帰る前夜、邑人は皆由宇に言った。「山から帰るのはよしなはれ。ひと月余分にかかるが、南から回って京に出た方がよい。おぬしはいい人柄じゃ。死なせたくはない。」と。由宇は言った。「妻が病に倒れており、生死の境を彷徨っている。何とか薬を求めてここに来た。探しているものは見つからなかったが、このどんぐりを食べて河童になったのを聞いた。どうせ死ぬのなら、この不思議な木の実を妻に食わせたい。その時は私も一緒に食うつもりだ。」「とにかく急ぎだ、南から迂回する余裕はない。」と。
その晩、由宇が眠っていた時、横で動くものを感じた。うっすらと眼を開くと、女子がこちらを見ていた。「お兄、ここで一緒に眠ってもいい?」お蜜だった。「いいよ、どうしたんだい?」由宇は尋ねた。「私ね、怖い夢を見たの。見たこともない着物を着た人が、どんぐりの木を切り倒して、河童がね、数百、数千とうようよ彷徨ってるの。たくさんいるんだけど、皆痩せ細ってね、骨がないみたいで、そのうち泥の川に吸い込まれて皆消えていったの。後にはね、木の切り株がたくさんあって、強い光が差し込んでいて、眩しくて、何も見えなかったの。後のことは分からない。目が覚めて、怖くて怖くて、それでね・・・」お蜜の眼からは涙が流れていた。「悪い夢を見たんだよ。さあ、もう寝よう。」由宇はお蜜の髪を撫でながら言った。「お兄、明日帰るんやね…」
翌朝早く、由宇が眼を覚ました時には、お蜜はもういなかった。邑長に最後の別れを告げ、多くの者がまだ眠っている中、一人山に消えていった。往路歩いた小川を進むと、やはり左手に、どんぐりを拾った深い闇の杜があった。由宇は、その奥で煙のようなものを見た気がした。手元に残っているどんぐりはもう三つしかない。もう少し拾おうと思い、意を決して再び、鬱蒼と茂った涅色の瞑い杜に入った。
暫く歩くと、真っ暗で何も見えなくなった。鬱蒼とした杜の空気は生ぬるく湿っており、ふと触った樹の肌はぬめぬめとし、驚いて倒れた地面は深い腐植土でぶよんと沈んだ。気持ち悪くなって戻ろうとしたが、遠くのかすかな明かりだけが手がかりで、一目散に走ろうとしたがすぐに樹の幹にぶち当たり、また光が見えなくなる。やがて恐怖から眼もまともに見えなくなり、記憶も飛びながら光を探し懸命に進もうとした。
「ホッホッホッ、ホー」薄気味悪く杜を貫く震えた声が辺りに響いた。「ホホッ、ホッホッ」もう一度、同じような声が聞こえた。生温(なまぬる)い風が由宇の顔を舐め回した。「なんだ。」初めて由宇は、大声を出したが、ざわざわとした音に掻き消された。気が付くと上の方で強い風が吹いており、樹冠の隙間から時折どんよりと曇った空が垣間見えた。やがて風が止み再び闇が戻ったときには、由宇は腰から崩れ落ち、もうじっとして動かなかった。
「お兄ちゃん」ふと、近くから聞き覚えのある声が聞こえた。「お蜜ちゃん?」闇に向かって聞き返した。「うん。お兄ちゃん、どんぐり、食べる?」優しそうな声が返ってきた。「帰りたいんだけど、道が分からないんだ。」由宇は答えた。「お兄ちゃん、どんぐり、食べる?」また同じ声が聞こえた。「妻が病気でね、早く帰りたいんだ。お兄ちゃんじゃなくて、お兄ちゃんのお嫁さんに、どんぐりを食べさせたいんだ。」俯きながら、もう周りを見ず、由宇は答えた。その時、由宇は口元に何かを感じた。どんぐりだった。「食べる?」闇から声が聞こえた。「お兄ちゃんじゃなくて・・・」由宇がそう言った時には、どんぐりは口の中に入っていた。甘く苦い味を感じたまま、由宇は気を失った。
気が付いたときには、由宇は山の向こう側の入り口に倒れていた。もう自分の邑は目の前である。何も考えず、妻のいる家に向かった。帰り着いたときには、妻は既に元気になっていた。「昨日、河童の夢を見てね、河童がどんぐりをくれたのね。そうして眼が覚めたら、昨日まで動けなかったのに、全然治っていたの。不思議な夢だったわ。」こう妻は言った。由宇は、ふと気付いた。「どんな河童だったんだい?」妻は答えた。「小さな、かわいらしい女の子の河童でね、そうそう、名前を『お蜜』って言ってたっけ。小さなどんぐりをくれてね、甘くて苦い、おいしいどんぐりだったわ。」
それ以来、由宇はこの山を越えたことはない。もう齢(よわい)も五十を超えるが、夫婦円満に過ごしている。やがて生まれた娘には「お蜜」という名をつけたと聞く。
冬も葉の落ちぬ深い杜は、今も由宇の家から遠くに見えるが、あれ以来一度も足を踏み入れたことがない。河童の話は、邑人の間でも時々は流れるそうである。
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